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2005年06月15日
空けてもうた(T-T)
夜景に意味はない。
汐留行った時に何となく撮った。
以前はこうゆう
宝石箱をぶちまけたような景色が好きだったけど
最近は
遠くにポツンとある灯りが
いいなと思う。
投稿者 yodico : 03:07 | コメント (0) | トラックバック
2005年06月06日
降ったり止んだり。
日差しが強いなあ、と思ってると
急に真っ黒な積層雲が間近に迫っていたりする。
そんな中次の本を読み始めたけれど、
「プラハの深い夜」パヴェル・コホウト
第二次世界大戦末期のチェコで
猟奇的連続殺人が起こる。
ドイツ第三帝国の敏腕検事と
被占領国であるチェコの優等刑事が
反発しあいながら犯人を追う、という話だけれど・・・
長げぇーーー(×_×;
二段組で459ページもある・・・
まだ100ページ行ってないんですけど。
投稿者 yodico : 01:54 | コメント (1) | トラックバック
2005年06月05日
天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ
![]()
犬猫馬牛ヤモリトカゲ虫ミジンコの上にも造らない。
たまたま権勢を誇っているからと言って
何も言えないからって
「畜生」という呼ばわり方はやっぱムカつく。
言ってもたかだか数千年だ。
いろいろゴチョゴチョやり出したのは。
偏差値いいのは認めるけどさ。
頭いいなら砂漠化と温暖化と無駄な戦争なんとかせー。
どの宗教者も言うに
「現世で悪いことしたら、来世は畜生に生まれ変わるからね」
それを決めて、誰がナニしてるか帳簿つけてんのは誰ですか?
あ。忘れてた。読書日誌。
「望楼館追想」エドワード・ケアリー
大切な思い出があり、大切にしている他人の所有物だけを盗んでコレクションする主人公を含め、
数人の人々が住む世間に忘れられたマンション「望楼館」。
館自体が時代から取り残され、そこに住む人々は全員、ある瞬間から時を止めて生きている。
「ぼく」は自分の内外の不動性をつくることができ、
全く動かずに長時間居続けることができる。
そして人形の振りをして広場で金を稼ぎ、ある瞬間から時を止めた両親を養っている。
「ぼく」は他人の思い出の品を盗み、収集する。それは1000点にも登るコレクションだ。
それぞれに思い出があり、その所有者が最も生き生きとした時代が封じ込められている。
最愛の生徒を失った元教師が、体罰用に持っていた「ものさし」
自分を犬と思い込んでいる女性が自分の首につけていた名札入りの首輪
自己の職務=自分そのもの、という門番が着る制服のボタン
そんな時を止めたマンションに、
新しい住人が引っ越して来て波乱を巻き起こす。
居住者たちの心の変動は、やがて望楼館そのものの存在を脅かしはじめる。
可能ならば全てのコレクションにまつわる物語を読みたかった。
それぐらい面白かった。
さすがに1000は無理だろうけど。
投稿者 yodico : 05:19 | コメント (0) | トラックバック
2005年06月04日
勝ったっす
バーレーン戦。
結構見てる限りは淡々と、という感じで
それほど盛り上がりもなく終わりました。
中田の配置と動きがよくて
バーレーン側は動きを封じられた格好になったような気がする。
うー、つまり「シブイ」試合だったのだな。
投稿者 yodico : 05:23 | コメント (0) | トラックバック
2005年06月03日
努力と根性
また危なく飛ばすところであった。
↑なんてことばっかり書いていては日記にならぬ。
「努力と根性」最も自分に欠けているもの。
付け加えれば「真剣さ」も。
どっかで真剣じゃないところがあるので
注意力が散漫になる。
そうすっと失敗する。
何度痛い目に遭っても三歩歩くと忘れている。
いかんなあ。
投稿者 yodico : 04:06 | コメント (0) | トラックバック
2005年06月02日
なんかにゃー
Mac OSXがフリーズする現象。
いろいろやってみたけれど、
やっぱり落ちる。
さてATOKを外してみた。
・・・・・・落ちない・・・。
やっぱコイツかーー!
でも同じ環境のG5は落ちない。
つまりFEP変換のスピードが
追いついてない、ということかな・・・
やだなあーことえりじゃあ文章打ちにくいっす。
投稿者 yodico : 03:08 | コメント (1) | トラックバック
2005年06月01日
とうとう空いてしまた・・・
なんやかやバタバタしているうちに
とうとう空いてしまった・・・(T-T)
と、いつもならここでやめるのだが、
今回は止めないでがんばろう。
皆勤賞は逃したが(そんなのあんのか)、まーいっか。
6月本格稼働とゆうことで(それが良くない)。
今日、プロカメラマンの仕事を見て
本当に圧倒された。
やっぱプロだよなー。
言い古されてるがキカイじゃない、ウデだ。
バカチョンで撮ろうが携帯で撮ろうが
アングルがピタリと決まる上に
ピント、絞り、露光も
まるで調節機能があるかのようにキマる。
空間と光の使い方が絶妙だ。
デザインも同じなんだねえ、結局は。
ただ、どちらもいわゆるプロ、と
アーティストは似て非ナルものだ。
同列ではないし、プロの先にアーティストがあるのでもない。
目指すところが違う。
プロは設計的思考をする。
アーティストも手法として設計的思考をするが
おおむねそれをぶち壊す方を選ぶ。
プロはある用途に即したものを最終目標とするが
アーティストにとってはそれは関係がない。
アートの表現手段は何、と決まったものではない。
だからやっぱり設計であるデザインは
本来非常に論理的なものだ。
論理を外れたデザインは役に立たないし、
出来上がったデザインがアートとして価値があるかどうかは
デザインの本来的な目的には全くと言っていいほど関係がない。
デザイナーがアートの価値を追求し始めたら
戦闘機は飛べない。
逆にアーティストがデザイン的完成度を求め始めたら
その瞬間にそれはただの屑。